2019
04/02
火
加佐登神社に続いては、西に1㎞程の所にある『観音寺』(かんのんじ)に行きました(^^)/
南側道路の反対側にある
駐車場に
車を停め、南側の境内入口に来ました。右手に伊勢七福神霊場の看板と、左には寺号標があります。


寺号標の石碑には「荒神山観音寺」と刻まれています。山号は荒神山(こうじんやま)だと思いましたら、山号は高神山(こうじんやま)だそうです。当寺の裏山で起きた侠客同士の私闘・荒神山の喧嘩は講談などで有名になり、荒神山観音寺の方が良く知られるようになったようです。
寺号は観音寺で正式名称は「高神山観音寺」になります。寺号標は別称(通称)が刻まれている珍しいものでした。真言宗御室派の仏教寺院です。
参道は緩い段床を上ります。左には弘法大師の霊場ノボリ「南無大師偏照金剛」と書かれています。右には七福神ノボリ、正面に見えるのは本堂になります。
境内に入ると観音寺の縁起が書かれていました。
「当寺は、寛治元年(西暦1087年)四月、堀河天皇の時代に建てられたもので、真言宗御室派仁和寺に属し、十一面観世音菩薩をお祭りしてあります。往古は神事山と伝い、後ち高野山の一寺の名をとって高神山と改めました。
出羽の国湯殿山の行者、順海上人の異母姉に当る三代将軍徳川家光の乳母春日局は、当寺に信仰厚く、正保四年(西暦1647年)銘入りのつり鐘とともに、五体の仏像を寄進されました。
また、奥の院の三宝荒神は、春日局と順海上人が礼祭りしたもので、暴悪治罰の神徳があらたかなため、勝運を祈願されるかたが多くみられます。
慶応二年(西暦1866年)四月八日、ばく徒の神戸の長吉と桑名の穴太徳が縄張り争いから、当寺裏山で死闘をつくしたのが、後の世に「荒神山の血煙り」と題した浪曲となって、当寺の名をいっそう広めることになりました。」
境内全景になります。奥に広い境内は、一番手前正面に本堂がございます。
小さくまとめた手水舎です。身を清めて中に進みます。
鐘楼です。梵鐘は小さいですが、春日局(徳川家光の乳母)が寄進しています。
春日局とのかかわりは
「寛永10年(1640年)、春日局の異母弟である順海上人は、伊勢大神宮への参詣途中、眼疾を患い失明しました。伊勢大神宮に開眼の志願をしたところ、夢枕に神童がたち、神事山の十一面観音菩薩像に祈願せよとの御告げがあり、当山に参拝して7日目、開眼することができました。
その姿に帰依した姉である春日局は、梵鐘と五体の仏像を寄進しました。」
鐘楼奥に見えるのは庫裏で、鐘楼の横にあるのは社務所です。
寄棟造り、向拝付きの本堂です。屋根頂部にはシャチホコ、隅棟の先には見事な鬼瓦がうかがえます。向拝に上がるのにスロープが付いて参拝客に配慮されています。御本尊は十一面観世音菩薩になります。
又、高神山観音寺は三重四国八十八ヶ所第二十番札所、伊勢西国三十三所観音霊場第二十四番札所となっていて、更に伊勢七福神霊場の寿老人も祀られています。
向拝上部には「高神山」と山号が書かれた扁額が掲げられています。よく見ると、虹梁など各所に彫刻が施され、優美さを感じさせます。
一通り見て回り、お参りをさせていただきました<(_ _)>
広縁の天井は格天井(ごうてんじょう)となっており、もうはげてしまっていますが、升一枚一枚が絵の入った絵天井だったようです。
本堂の西側から境内奥です。手前が観音堂、更にその向こうに護摩堂があります。
左手には小さいお堂(八祖大師)が八つ並んでいます。
本堂のすぐ後ろにあります観音堂です。西国三十三ヶ所観世音菩薩と書かれた石碑がありますので、伊勢西国三十三所のお堂に思われます。
境内の一番奥にありましたのは、境内図では「奥の院」と書かれていました護摩堂になります。四月には護摩修行に於いて火渡りも行われるそうです。
本堂の東側にありましたのは、三吉稲荷大明神です。各お堂にてお参りをさせていただきました。
社務所にて伊勢西国三十三所の納経印をいただきました。
納経印
場所:高神山観音寺



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