2019
03/25
月
舎那院を後にして次に向かったのは、長浜駅
にほど近い場所にある『豊国神社』(ほうこくじんじゃ)に行きました(^^)/ 隣の有料駐車場に
車を停めて、
歩いて東側の入口に来ました。西日でいい
写真が撮れません。。。




参道入口左側に「豊国神社」と刻まれた社号標があります。
入口の第一鳥居は石製です。扁額には金文字で「豊国大神」と書かれています。
境内北側には「参集殿」があります。
駐車はここで良かったのかなぁ(^^;)

境内参道の左側には、御祭神で祀られている「加藤清正公像」がありました。
参道右側には、摂社の「菅原道真公天満宮」がありました。鳥居には天満宮の文字のみの扁額が掲げられています。
天満宮の隣に豊国神社の由緒が書かれていました。
「天正元年(1573)信長の進攻により小谷城の浅井家が滅亡し、湖北が秀吉公の知行地になると翌年長浜城と城下町の造営に着手し、それ以降楽市楽座の制度と地租税三百石免除の恩典で、江戸時代を通じて長浜の商家は大いに繁栄しました。
慶長三年(1598)秀吉公が逝去されると、町民は太閤さんの恩徳を慕って豊国神社を建立しましたが、江戸時代になり太閤さんを神格化することが禁じられて取り壊され、秀吉公の御神像は町役人の家々で守り継がれた時代が続きましたが、寛政五年(1793)「えびす宮」の建築許可をうけ、奥に御神像を安置して密かにお祀りしていました。現在の神社名は、明治維新後に晴れて復帰した名称です。」
秀吉の自画像と「秀吉と豊国神社」について書かれています。
「豊国神社の前身である豊国社は、慶長4年(1599)の京都における豊国社の造営を受けて創始されました。それは、慶長5年(1600)8月18日のことで、現長浜八幡宮のお旅所内に社(やしろ)を置いて、「豊国大明神」と称しました。しかし、元和元年(1615)に「大坂の陣」で豊臣家が滅亡すると、長浜の豊国社も廃止に追い込まれていきます。
その後、寛政4年(1792)に至り、お旅所にあった豊国社の旧地に、蛭子神(えびす)社と合わせて豊国社が祀られ、弘化3年(1846)には秀吉公250回忌にあたり、社前に石燈籠や釣燈籠が奉納されています。明治維新になって豊(みのり)神社と改名し、明治25年(1892)には社地を現在地附近に移して、大正9年(1920)に豊国神社と改名しました。
曳山祭の起源を秀吉公に求めるように、長浜町人の秀吉公への信仰は根強いものがあります。左図のように、個人宅でも秀吉像を持ち、それらを礼拝する慣行があったようです。この町民たちの秀吉公への信仰の核となったのが、この豊国社であったといえます。」
「秀吉公遺愛の虎石」はこの奥にありました。
手水舎がありましたので、身を清めてお詣りに進みます。
水盤が彫り込まれたところにあって、非常に使いにくくしてあるのは何故なんだろう??
境内二つめの摂社になります「稲玉命出世稲荷神社」です。参道に建てられている朱色の鳥居を撮ってくるのを忘れました(^^;) 最初、これが本堂かと間違えたほど立派な稲荷です。向拝の唐破風の屋根だけ檜皮葺ってのが風格あっていいですね~!
向拝にてお詣りをさせていただきました<(_ _)>
豊国神社の第二鳥居になります。ここから北向きになりました(^^)/
石製の鳥居で、第一鳥居と同じく扁額には「豊国大神」と書かれています。
参道左には社務所があります。中程にある朱印所にて御朱印をいただけます。
豊国神社の正面全景です。こちらも向拝は唐破風の檜皮葺屋根です。
御祭神は豊臣秀吉公、加藤虎之助清正公、八重事代主命えびす宮、木村長門守重成公と先程の由緒に書かれていました。創建は慶長5年(1600年)になります。
ご祭神に恵比寿神が祀られていますので、恵比寿様の像がたくさん飾られています。
向拝にてお詣りをさせていただきました<(_ _)>
社殿全景をちょっと斜めから(^^)/ 江戸時代中期に建てられた拝殿は千鳥破風の屋根です。拝見するのを忘れましたが、この奥にあります本殿は神明造りとなっているようです。
御朱印
場所:豊国神社(長浜市)



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