2019
01/06
日
美濃市の鹿苑寺に続いては、関市にある『日龍峯寺』(にちりゅうぶじ)に行きました(^^)/
30分程
車を走らせ、県道58号線にございました寺号標を左に曲がり山道を進んでいきます。寺号標には「高沢山 日龍峯寺」と刻まれています。

3㎞程山道を進むと、仁王門がありました!
車を仁王門手前に停め、ここからは
歩いて行きます。


仁王門の横に境内案内図がありました。山の中腹をまるっと境内にしたかなり広い寺院になります。
木部の傷みがかなりきている状態です。仁王門は享保3年(1718年)約300年前に建造されています。
柱には「大日山 日龍峯寺(高澤観音)」と書かれています。山号は大日山、寺号が日龍峯寺、正式名称は大日山日龍峯寺になります。
高澤山の山頂にこの寺はあるため、地元では高澤観音と呼ばれているそうです。美濃高野山と書かれた看板も目立ちますが、高野山のイメージってことなのかな?(^^;)
扁額には日龍峯寺と書かれていますが、剥げてほとんど見えません(^_-)
この参道階段を登って、本堂のある境内まで行きます。 かなりしんどかったです…


左側には岐阜県指定文化財の「本堂、籠堂(こもりどう)」の説明看板がありました。右側にある手水舎で身を清めて、上の本堂に伺います。
左の五色幕があるのが本堂です。右が籠堂になります。本堂は五間四面の入母屋造り桧皮葺で山頂傾斜地の岩上に建立されています。前方は舞台造りで京都の清水寺によく似ており、「美濃清水」の異名もあるようです。
本堂です。古い建物の上に足下が不安定な状態なので、今後の文化財保護が課題になってくるでしょう。
「鎌倉尼将軍北条政子寄進の本堂は、惜しくも応仁文明の乱により戦火の犠牲となり焼失し、現在の本堂は寛文十年(江戸時代)の建造物である。」とHPに書かれていました。
木製の階段の右側が籠堂、左が本堂です。かなり古そうな床下の木製束も、大丈夫なのかな…(^^;)
本堂にあった看板には宮殿と記されていました。たくさんの額等、数多くの物が飾られています。 江戸時代前期の寛文10年(1670年)に建立されています。ご本尊は千手観世音菩薩。美濃西国三十三観音霊場の第一番札所、中濃八十八ヶ所第六十一番札所となっています。
宮殿にてお参りをさせていただきました<(_ _)>
日龍峯寺の縁起
「仁徳天皇の昔、両面宿儺が開基、行基菩薩が伽藍を整えたと伝えられる。鎌倉時代尼将軍政子の時、伽藍再興され栄えたが、室町末期の戦乱にて悉く焼失。その後、佐藤氏よる復興をへて江戸時代には尾張藩の保護を受けた。美濃清水と称される檜皮葺の本堂は寛文十一年(1671)に再建された。」
美濃西国三十三観音霊場のHPより
本堂北側(裏)にある「みたらしの霊水」です。洞窟より湧き出ている霊水で、眼病、ぼけ封じ、子宝、病気平癒に効くようです。
本堂を下に降りて、境内参道を南に向かいます。なだらかな石段とスロープでできています。
国の重要文化財である「多宝塔」が最初にありました。
「多宝塔は鎌倉時代中頃の建立で、間口3間(3.97m)奥行3間(3.97m)あり屋根は檜皮葺き(ひわだぶき)、宝珠(ほうじゅ)までの総高は14.7mあります。寺伝では鎌倉時代、全国で旱魃(かんばつ)により飢餓(きが)が多く困惑していた時、尼将軍の北条政子の夢枕に神龍現れ「日龍峯寺に池あり。法華経を書写し供養してかの池に入れれば多雨たちまち降りなん」と告げ池に飛入するをみて目が覚めり。政子はお告げの通りに供養すると霊雨降りて五穀が実り飢餓を免れました。将軍家より謝礼として荒廃しつつあった七堂伽藍が再興されたと言われています。鎌倉時代を代表する全国屈指の建造物です。」
と説明看板に書かれていました。
「金比羅堂」文政三年建立です。金比羅の名前通り神社の拝殿のようです。やはり神仏習合の名残でしょうねぇ。奥に見えるのが本殿ですかね?
「薬師堂」貞亨五年建立。薬師如来坐像、日光菩薩、月光菩薩が安置されています。
「不動堂」は寛政五年建立。不動明王像が安置されています。
「鐘楼」は昭和6年に焼失し、昭和11年に再建立されています。参拝者はいつでも鐘を撞くことができるようです。
庫裡です。門には日龍峯寺の札が掛かっています。
納経所です。ご住職はご不在で、書き置きを頂いてきました。
ここまで多くの伽藍が残っている寺院も珍しかったです。さすが、岐阜県最古の寺院を謳っているだけありますねぇ(^^)/
納経印
場所:日龍峯寺


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