2018
12/29
土
来昌寺に続いては、歩いて10分ほどの場所にある『宝勝院』(ほうしょういん)に行きました(^^)/ まずは、大通りに面した入口の状態です。燈籠(常夜灯)が入口際に3台並んでいるのは珍しいです。
寺号標はありませんでしたが、ご案内看板がありました。それによりますと、山号は金毘羅山、寺号はわかりませんが、本山は京都の醍醐寺とあります。院号は宝勝院(寶の字は旧字)になります。宗派は真言宗醍醐派です。ご本尊は大日大聖不動明王となっております。
境内の建物全景です。右の赤い屋根は稲荷神社、稲荷の左一番大きい建物が本堂です。真ん中は庫裏の入口です。ちょっと木に隠れている一番左は金毘羅大権現と歓喜天が祀られているお堂になります。
東側緑の中、錫杖を持った修験の祖役行者像がございました。
西の塀際に手水舎がありました。水道蛇口の手水舎も味気ないですが…身を清めます。
西端のお堂(金毘羅大権現と大聖歓喜天)です。棟瓦と鬼瓦が際立っています。
お堂の中には入れないように柵がしてありますので、手前でお参りをしました。
本堂前の稲荷神社です。お地蔵様の祠も隣にあります。
本堂です。本尊の不動明王はここに祀られています。美濃西国三十三観音霊場の第四番礼所となっておりますので、聖観世音菩薩もここに祀られています。その他に中濃八十八ヶ所の霊場看板もありましたので、弘法大師様もお祀りになっているようです。
宝勝院の縁起
「宝勝院は、平安の古より山岳信仰修験者の修練道場として美濃地方修験者によって護持され、当時は伊勢舎と呼ばれていた。堂宇は再度の災禍にあい確かな記録は残されていないが、本山醍醐寺の古文書に当寺の小史が残っており、修験の祖役行者像、不動明王などから昔日を偲ぶことができる。
天正十八年(1590)南都快俊が再興するが、江戸時代、徳川家康の政策によって修験道は衰退の一途を辿る。それ以降は、金毘羅大権現の御分霊を迎え、聖観音を合祀して、上有地湊の安全祈願を担うことになる。」
本堂前にてお参りをさせていただきました<(_ _)>
納経所は本堂内にありましたので、朱印を押してきました(^^)/ ただ、書き置きはないようでしたので、朱印を押して墨書きは私が真似て書きました(^^;)
庫裏です。説明看板によりますと、明治九年に建てられた旧小学校の本館を移築したものだそうです。西洋建築のデザインをとり入れ、当時としては極めて進歩的だったようです。
納経印
場所:宝勝院


よければポチッとお願いします(^^)/

この記事と関連する記事
AFTER「三重 城郭めぐり 一覧」
BEFORE「美濃西国三十三観音の来昌寺」
COMMENT