2018
12/23
日
今日は愛知県清須市にある『清洲城』(きよすじょう)に行きました(^^)/
中部地方にいる人はよくご存知でしょうが、織田信長が居城としたことでも有名です。
まずは清洲城の川向かいにある、清洲公園の駐車場に
車を停めて公園を
散策します。


「織田信長公を祀るお社」と言うのがありました。6月2日の命日には「信長公顕彰祭」が行われるようです。
公園はかなり広く、東海道本線と新幹線を跨いで反対側(南側)に清洲城跡があります。

「信長公出陣の像」です。弱冠27歳の時に、清州城より桶狭間へ向かって出陣する所だそうです。
濃姫は見送りでしょうか?(^^;)
「清洲ふるさとのやかた」と言う名のおみやげ処です。ここで登城記念の御朱印をいただきました。
おみやげ処から橋を渡って天守に向かいます。
昔風な紅い欄干のある橋正面に天守が佇み、雰囲気があります。
五条川に架かる橋を渡った正面に大手門(城門)があり、後ろには天守閣が構えています。
大手門(城門)です。門前には清洲城と刻まれた石碑も伺えます。
清洲城の縁起が書かれていました。
「清洲城は当初、尾張守護所の下津城の別郭として築城されました。
その後、下津城が戦乱で消失したため文明八年(1476)に守護所が清州城へ移されたとされています。
戦国の頃、尾張国は守護代の織田氏が実権を握っていました。尾張の上四郡を支配していた岩倉の織田氏と下四郡を支配した清州の織田氏が争うなかで、清州織田家当主の信友を那古野城主織田信長公は攻め滅ぼして清州城に入城し、尾張の拠点としました。
永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元の軍勢を打ち破ったのを手始めに、美濃・近江等の近隣の国々を攻略して着々と天下統一へと歩みを進めていきました。
しかし、天正十年(1582)の本能寺の変によりその志は夢半ばで断たれてしまいました。このように天下統一の礎を築いた織田信長公は郷土の英雄として人々の尊敬を集めています。
清州城は、「関東の巨鎮」と称えられ、尾張はもとより東国の中心地として発展を遂げました。信長の長男の信忠、二男の信雄以降は名だたる武将が城主となりました。
徳川義直の代の慶長十五年(1610)徳川家康は、清州城の廃都と名古屋遷都を命じ、三年後には、「清須越し」が完了しました。清州城は廃城となり、城下町から、美濃路の宿場町へと姿をかえていきました。」
現在の清洲城は清洲町が町制百周年(平成元年)に再建されております。
「信長塀」です。永禄三年(1560)織田信長公が桶狭間へ出陣の途中熱田神宮に戦勝を祈願し、大勝したのでそのお礼に奉納された塀をモデルにしております。
「土蔵」です。特に説明板もなかったのでわかりませんが、清洲城にまつわる貴重品が納められているんでしょうか?(^^)/
大手門から天守閣正面です。黒の鎧壁と白の漆喰壁のコントラストが美しい城です。手前は枯山水の日本庭園で立入禁止となっていました。
城内にある「芸能文化館」です。銅葺きの屋根で造りを時代にあったようにマッチングされています。
天守閣前から大手門側を写しています。
下から見上げての天守閣全景です。石垣のど真ん中にある入口から中に入ります。
入館料大人300円で入城できます。内部は清洲城や織田信長公にまつわる展示品が数多くありました。
最上階の4階からの眺望景色です。シャチホコに色がないですが、最上階の上の屋根にあるシャチホコは金色です。
左隅にある「搦め手門」から東外側に出て、南東から天守閣の全景になります。
北東からの天守閣全景です。右側の芸能文化館から塀までデザインを損なわないように上手に仕上げられています。
御朱印(登城記念)です。
追記:今回は午後からの日帰りで清須市に来ました。清洲城の見学後は、
歩いて10分ほどの所にあります「日吉神社」も行ってきました。併せてご覧ください(^^)/

場所:清洲城


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