2018
12/03
月
今回は出張先でのお休みを利用して三重県鳥羽市に行きました~(^^)/
まずは、鳥羽でチョーーー有名な鳥羽水族館の前にある『鳥羽城跡』(とばじょうあと)に行きました! 伊勢湾フェリー近くの市営駐車場に
車を停め、そこから
歩いて向かいます。北側の城山通りを
歩いていると、「鳥羽城跡案内図」がありました。



案内図に従って、通りから階段を高台へと上がっていきます。
階段を上がりきると、広~~い「城山公園」がありました。春は満開の桜が楽しめるそうです。
「♡TOBA」のモニュメントの前でカップルが記念撮影してました(-∀-)
「城山公園」を南へ通り過ぎ、下にある「三の丸」に向かいます。天守に向かう法面が、段々の石垣でできていました。
大手門通りにまで下りてきた所に「三の丸広場」があります。木製の常夜灯はまだ新しく、復元されたもののようです。
屋根のある休憩所前に大きな旗がありますが、書かれている「左三つ巴紋」は鳥羽城城主だった九鬼家家紋のようです。
「三の丸広場」から降りてきた道を戻り、段々の石垣の一番上にある道を更に南に行きます。写真右のアスファルトの道を通って「本丸跡」へ向かいます。
「鷹羽龍年の鳥羽城詩碑」がありました。石碑は明治40年3月に建立されたようです。
「本丸石垣」です。所々草が伸び放題で、ちょっとは手入れした方が…(^^;)
「本丸周辺には、建物は残っていませんが、野面積みの石垣が残存し、当時の姿を留めています。
角石が団子のように積んでありますが、関ヶ原の戦い以前の石垣で、九鬼嘉隆が城主の時代に築かれた石垣の可能性があります。また、折れ曲がり奥の部分は、手前の石垣より新しく、角に少し長い石を左右交互に積んでいることから、「算木積」と呼ばれる手法が用いられています。石垣の石材は、カンラン岩と千枚岩を使用しており、これらの石材は、周辺の海岸部で採取されたものと考えられます。石垣には排水のための水抜き坑もあります。」
と説明板に書かれていました。
天守跡です。先程の城山公園くらい広い空き地です…(^_-)
「延宝8年に作成された鳥羽城の財産目録には、城内の建物について非常に詳しく書かれています。
天守については、「一 天守三重 内壱重、五間に六間」とあり、3層であったことがわかります。また、鳥羽城の天守は、屋根の構造から「望楼型(ぼうろうがた)と呼ばれる古い型式の天守であったと推定されており、九鬼氏が城主の時代は建設されていたと考えられます。」」
と説明板に書かれていました。
この広場、天守跡の更に奥には、本丸跡と記されていました。
「この場所は鳥羽城の本丸跡で、天守や本丸御殿が建っていました。延宝9(1681)年の記録によると、天守は3層で、大きさは5間×6間、高さは10間5尺、天守の下には土蔵があったと記されています。本丸御殿は、275坪であったとされています。
明治時代に建物は取り壊しとなり、現在は往時を偲ぶ建物は残っていませんが、周囲には野面積みの石垣の一部が今も残っています。この場所は平成21年まで旧鳥羽小学校の運動場として活用されていました。
城の築城時期については、九鬼嘉隆が文禄3(1594)年に竣工したとされていますが、詳しいことは不明でした。そのため、平成23(2011)年に初めて発掘調査が行われ、運動場跡の下から築城主である九鬼氏の時代とみられる16世紀末頃の石垣や雨落ち溝、土蔵や本丸御殿の一部と考えられる遺構が確認されました。現在は平坦となっていますが、天守台のあった場所が最も高く、本丸内でも高低差があったことも判明しました。
明治初期の開発によって城の海側の斜面は削平を受けており、急斜面となっていますが本来の城は現在の鳥羽水族館のところまで拡がっていました。ここからは、嘉隆が自害した答志島をはじめ鳥羽湾が展望でき、九鬼水軍の城にふさわしい「海城」の面影を偲ぶことができます。」
天守跡からの眺望が素晴らしいです(≧∇≦)ノ 正面の島は答志島です。手前に橋が架かっている島はミキモト真珠島になります。
一旦下に降り、鳥羽市の観光案内所まで
歩いて向かい登城記念印をいただいてきました~♪

今回の鳥羽城跡訪問で「伊賀・亀山・津・松阪・鳥羽 城郭めぐり」が無事終了いたしました。一覧は、また後日まとめてブログにのせま~す!お楽しみに(^^)/
場所:鳥羽城跡


よければポチッとお願いします<(_ _)>

この記事と関連する記事
AFTER「鳥羽城山にある大山祇神社」
BEFORE「美濃新四国八十八ヶ所の桃林寺」
COMMENT