2018
11/03
土
菅原神社を後にして、本日最後は東に
歩いて600mの所にある『愛染院願成寺』(あいぜんいんがんじょうじ)に行きました(´ー`)ノ

敷地は2つの国道交差点の角近くにあり、目の前は
車が途切れる事が無いくらいの場所で、入口前の
写真を撮るのにかなり時間がかかりました(^^;)


入口前の左右には「芭蕉翁故郷塚」の石碑があります。願成寺は松尾芭蕉の生家から徒歩3分のところにあり、代々松尾家の菩提寺とされてきました。
山門です。寺号標が無い代わりに、「真言宗豊山派 愛染院」の札が掲げられています。山号は遍光山、院号は愛染院、寺号が願成寺です。正式名称は「遍光山愛染院願成寺」となります。真言宗豊山派の寺院です。
入口前には「愛染院故郷塚の由来」が書かれていました。
「「伊賀国寺院明細牒」によれば、当寺は、往古上野山平楽寺の子院東ノ坊といい愛染明王を本尊とすることから俗に愛染院と称されたが、慶長十六年春に始まる城下町建設のさい現在の地に寺域を拝領して、遍光山願成寺と改称した。
しかるに、その後も、往古より親しまれてきた愛染院の名は、普く三界に及び、今なお愛染院と称されるに至った。
また、当寺はわが国の詩歌史上、俳諧という庶民詩の一大金字塔を樹立した国民的大詩人松尾芭蕉翁の生家松尾氏の菩提所である。
芭蕉翁は、正保元年この寺のすぐ西にあたる赤坂の街で誕生し、二十九歳までこの地で暮らした。三十歳のとき決する処あって江戸に下り、俳諧の宗匠となり、遂に蕉風体を完成させたが、元禄七年十月十二日西国周遊の途中、大阪の地で病没した。
芭蕉翁の遺骸は遺言により、膳所の義仲寺葬られたが訃報をうけて、翁の臨滅に馳せ参じた伊賀の門人貝増卓袋、服部土芳は生地に遺髪を奉じて帰り、先塋の傍に墳を築いて故郷塚ととなえた。
塚の碑は服部嵐雪の筆に成るもので」 とありました。
伊賀四国、準西国、三重四国、西国愛染など数々の礼所となっています。
山門くぐって、参道正面が本堂になります。名前はわかりませんが、ピンクの綺麗な花が咲いています。 左側には石製の十三重ある層塔があります。
入って左手前には行者堂と先程の層塔です。層塔奥の建物は松尾芭蕉故郷塚の建物です。
右手側には庫裏がありました。玄関の所に納経所もあり、納経印をいただけます。
本堂全景です。子供を抱いた弘法大師様の像は初めて見ました(^^)/
ご本尊はもちろん愛染明王になります。詳しくはこの後の「愛染院の由来」で!
愛染院の由来
「御本尊愛染明王は、弘法大師と伝えられ、醍醐寺仕主、憲法僧正が、後鳥羽天皇の病気平癒を御修法されたところ、ただちに、御願成就し、奇端の霊光を放たれたという。
この御尊像を鏡覚阿闍梨が、元歴年間に、この地に安置し、寺を建立、遍光山願成寺と称された。天正九年の伊賀乱の兵火にかかり、御本尊その他わづかを残すのみで、灰になった。
その後、法印実恵が寛文年間に再興、先師、岡森有章大僧正が再中興され、更に、昭和六十年十月新築完成(木造瓦葺)されたものである。」
向拝入口上には「後鳥羽天皇諸願成就 愛染明王」と書かれた扁額が掲げられていました。本堂前にてお参りをさせていただきました<(_ _)>
三重四国八十八ヶ所の納経印をいただきました。
場所:愛染院願成寺


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