2018
10/30
火
本日は三重県伊賀市にある『伊賀上野城』(いがうえのじょう)に行きました(^^)/
正式名称は「上野城」で、別名(呼称)として伊賀上野城や白鳳城と言われます。
まずは、上野公園の有料駐車場に車
を停め、公園内にある上野城を目指して
歩いて行きます。


坂を上った高台に初代天守があった場所があります。この石垣は初代天守の石垣になります。天正13年(1585)に筒井定次が近世城郭としての伊賀上野城を築いたのが始まりです。
坂の上には台所門跡など城代屋敷跡もありました。
城代屋敷跡を過ぎると広場があり、天守が見えてきました。
東から見た天守になります。現在の天守は当地の代議士、川崎克による復興天守閣になります。これは、2代目天守であった、藤堂高虎が築いた五層天守閣のあった場所に建てられています。現在の天守は木造で三層の大天守と二層の小天守からなる複合式天守になります。
南東からの天守になります。白壁が美しく、白鳳城と呼ばれているのがよくわかります。
入口下から見た大天守になります。天守入口の門から中に入り、登閣料500円で天守に入城見学します。
天守入口前にはシャチホコのレプリカ?と上野城の由緒が書かれていました。
「藩祖、藤堂高虎は、慶長十三年(1608)八月、伊予国から伊賀国十万石、伊勢国の内十万石、伊予国の内二万石に移封となった。(のち三十二万三千九百五十四石余となる)
高虎は徳川家康の信任が厚く築城の名手でもあった。前城主、筒井定次が築いた上野城の本丸を慶長十六年(1611)に豊臣方に備えて西に拡張し、高さ約三十メートルの高石垣をめぐらした。
五層の天守閣は建設中の慶長十七年(1612)九月二日、当地を襲った大暴風雨のため倒壊した。
しかし、慶長十九年(1614)の大阪冬の陣と翌年の夏の陣で徳川方が勝利し、幕府は諸大名の城普請を禁じたためこの城では天守閣が再建されないまま城代家老が置かれて伊賀国の城として幕末まで存続した。
現在の天守閣は、当地出身の政治家、川崎克氏が文化産業振興の城として復興を志し、熊野の山林家、奥川吉三郎氏らの協力を得て私財を投じて資金を調達し、昭和十年(1935)十月十八日に落成した。
「伊賀文化産業城」と名付けられ、その優雅な姿から「白鳳城」とも呼ばれ親しまれている。」
天守内は資料館となっています。
天守からの眺望になります。先程見た初代天守の石垣が下に見えます。山の向こうに伊勢があるのかな?(^^;)
小天守の1階に「忍び井戸」と言うのがございました。「大阪城の攻略が不首尾に終ったときは上野城に籠城する」という秘命を徳川家康からうけ、籠城に耐えるためには最後の守備陣である天守に兵糧と水、塩とを無盡に確保することであると判断して小天守内に井戸を掘った!とありました。
南西からの天守になります。
西側からの天守になります。
内堀と高石垣です。藤堂高虎が改修した伊賀上野城の石垣は、大坂城に次ぐ高さを誇る、高石垣で有名です。
1611年(慶長16年)に「打込接ぎ(うちこみはぎ)」の技法で築かれた石垣は、根石より天端石(てんばいし)まで29.7mの高さがあります(水面上は約23.5m)。
天守閣の北側を進むと、国指定重要文化財の「俳聖殿」がありました。
俳聖殿の説明板によりますと
「松尾芭蕉の生誕三百年を記念して昭和十七年(1942)に建てられたもので、下層八角形平面、上層円形平面の木造重層で、屋根は上下層とも檜皮葺きである。
外観は、芭蕉の旅姿を建築に表そうとした建立の発意者川崎克氏の着想を、伊藤忠太博士の指導により極めてまれにみる和風建築としてまとめたものである。
上層の屋根は、芭蕉の笠、その下部が顔を、下層の屋根は蓑と衣を着た姿で、堂は脚部に、廻廊の柱は杖と脚を表現する。
堂内には、芭蕉の等身大伊賀焼の座像が安置されている。これは長谷川栄作氏の原像をもって川崎克氏が製作したものである。」 と書かれていました。
俳聖殿の全景です。説明板にもあるように、芭蕉の旅姿に見えなくもないなぁ(^^;)と思います。当時としてはかなり奇抜な建物だったのでは?と思います。
等身大で伊賀焼の松尾芭蕉座像になります。毎年10月12日の芭蕉翁の命日にここで行われる『芭蕉祭』でのみ公開されます。
俳聖殿の東には忍者屋敷と忍者資料館がありました。手前の広場には、木の陰に忍者が隠れています(^^)/
登城記念の御朱印は、公園東にある写真の伊賀上野観光協会でいただく(販売)ことができます。
場所:伊賀上野城


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