2018
10/22
月
本日は昨日行った大垣城に続いて、2日連続でお城巡りで『名古屋城』に行きました!
名古屋城天守閣の木造復元が5月から始まってしまったので、外観が見えなくなってしまう前に一度は見ておこうという気持ちです(´ー`)ノ
名古屋城入り口前にありました、「特別史跡 名古屋城」の配置図が書かれた看板です。工事区域や閉館中の表示もされていました。入場料は大人1人500円で入れます(^^)/
入口前には巨大な石柱に「恩賜元離宮名古屋城」と刻まれています。恩賜元離宮とは、将軍などから天皇へ献上された土地家屋が、宮内庁から無償譲渡された土地家屋のことを言います。
名古屋城正門(旧榎多門)の入口になります。お盆中と言う事もあり、かなりの人だかりとなっていました。
特別史跡名古屋城の説明版がありました。
「名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代の城主は、江戸幕府を開いた徳川家康の第九男義直です。慶長14年(1609)、家康みずから築城を決定し、翌15年に石垣普請が着工され、17年に大小の天守や各櫓が完成しました。普請を命じられたのは加藤清正ら西国の大名20名で、城内の石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っています。
慶長20年(1615)に本丸御殿、元和3年(1617)には二之丸御殿が完成し、二之丸御庭、御深井(おふけ)御庭なども整備され、名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせました。
明治維新後、名古屋城は陸軍省の所管となり、名古屋鎮台司令部や兵舎が置かれましたが、明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。昭和5年(1930)12月、名古屋市に下賜されると同時に国宝に指定され、翌年から一般公開が始まりました。昭和7年(1932)には、名古屋城全域が特別史跡に指定されました。
昭和20年(1945)5月、第二次世界大戦末期の空襲により、天守や本丸御殿など国宝建造物24棟が焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、空襲の直前にとりはずされていた本丸御殿障壁画1047面が、戦後重要文化財に指定されました。
昭和34年(1959)、天守閣と正門が、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。
平成21年(2009)には本丸御殿の復元工事が始まり、平成25年(2013)に玄関・表書院部分が完成しました。現在も、平成30年(2018)の全体完成をめざし工事が進められています。」
右には焼失前の本丸御殿と天守閣の写真がのっていました。
正門から中に入ります。この広い通路、案内図では「西之丸」と書かれていました。
「西南隅櫓」が見えてきた所で、奥の方に天守閣が見えました~(^^)/
更に真っ直ぐ進むと、重要文化財の「本丸表二之門」がありました。
「古名は南二之門。本丸大手の外門で、内門である表一之門とともに枡形を形成していた。本瓦葺の高麗門で、軒回りは漆喰塗り込めとし、柱や扉に金具を打ち付けている。現存する数少ない名古屋城創建時の建造物である。」
と説明板に書かれていました。
お堀の橋の途中で見えたのは「東南隅櫓」です。お堀は水が無く、緑で埋まっていました。東南隅櫓は国の重要文化財に指定されております。
本丸御殿です。平成21年(2009)から始まった復元工事も、今年全ての工事が終了いたしました。画像は最初に一般公開された玄関と表書院になります。
復元だからでしょうか、中は
撮影OKでした(^^)/ 本丸御殿は、当初、初代尾張藩主徳川義直の住まい・政治の場として使われましたが、義直が住まいを二之丸御殿に移したため、寛永10年に上洛殿の増築工事を開始して以降、本丸御殿は将軍上洛の際の宿舎となりました。将軍はこんな煌びやかな場所に泊まったんですねぇ~(-∀-)

玄関・大廊下の竹林豹虎図です。
対面所です。来客との対面や宴席などに使用されていました。二重折上げ小組格天井となっています。
廊下の化粧欄間が豪華絢爛なこと(^^;)
上洛殿一之間です。本丸御殿の中でもっとも格式高い場所で、1634年の三代将軍家光の上洛の際、宿泊場所として増築されました。
上洛殿二之間です。
本丸御殿の見学を終えて、本丸御殿の北側へ行くと天守閣が現れました(^^)/
手前の木が茶色で新しい建物が本丸御殿です。天守閣の南側にあるのは「小天守閣」です。この建物も閉館中になります。
同じ場所で天守閣の全景です。既に石垣部分は足場が架かっています。
名古屋城は「金鯱城」や「金城」、「名城」などと別名を持っています。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されています。木造復元化が正式に決まり、出来上がるのは2022年だそうです…
本丸から北側へ出る「不明門」です。
「土塀の下に設けられた門、本丸北側と御深井丸をつなぐ門であるが、厳重に施錠され「あかずの御門」と呼ばれていた。左右には槍の穂先を並べた剣塀が続いている。昭和二十五年(1945)に焼失し、昭和五十三年に復元された。」
北側の下から撮りました(^^)/ やっぱり石垣部分の足場が…
もうちょっと早く来れば良かった(o´_`o)ハァ・・・
北西角からの天守閣です。
西北隅櫓です。めっちゃ並んでるので見学は諦めました…(^^;) この西北隅櫓も国の重要文化財に指定されております。
本丸西側にある御深井丸(おふけまる)から木々の間を縫っての天守閣です。
できるだけ足場を見せないように
撮ったこの一枚が一番かっこいい天守閣の全景になりました~(^^)/

天守閣西側通路からの天守閣です。
手前に西南隅櫓、奥に東南隅櫓と内堀を渡った橋を望んでいます。
西之丸通路に盆踊りのステージが出来ておりました。夜は盆踊りがあったのかなぁ?
名古屋城の新たな城下町として名古屋城周辺にできました「金シャチ横丁」です。いろいろな「なごやめし」が堪能できる店舗が集まっているので、お昼ご飯食べようと来ました~(^^)/
が、、、どこも超満員で入れませんでした…┐(-。-;)┌ さすがお盆!
登城記念御朱印は中の売店で買うことができます。
場所:名古屋城


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AFTER「愛知県の戦没者を祀る 愛知縣護國神社」
BEFORE「関ヶ原合戦と大垣城」
COMMENT
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No.84 名古屋城の設計者は誰か知ってるかい?
時過ぎること39年前
何気なく友と東京八王子
創価女子短期大学体育館に立ち寄る
既にお話しが始まってた
おみえになられたのは
現在95歳創価学会第3代会長池田大作センセイでした
冒頭『名古屋城の設計者は誰か知ってるかい? 大工さんはダメだよ。』優しく語られました
まわりにいた婦人は徳川家康です
豊臣秀吉です
織田信長です!と答えはまちまち
たまたま中部から来た私は名古屋ど真ん中生まれ
名古屋城まで徒歩5分
3代に渡り生粋の名古屋人
フフフ 誰も知らないな
ハイ 加藤清正です
祖父 両親 3代に渡る常識
自信満々
加藤清正です
池田会長 間違いないかい?
ハイ間違いありません
本当に間違いないかい?
ハイ!絶対に間違いありません!!
池田会長
実はね名古屋城の設計者は小堀遠州なんだよ
えーっそんな馬鹿な
おじいちゃんが言ってたもんな
間違えるはずがない
絶対に加藤清正に決まってる
池田会長
名古屋の人でもこうなんです
青年は真実を確かめなさい!
確かに小堀遠州でした
一瞬に代々家庭の言い伝えが覆されました
後にこう記載がありました
私の信濃町自宅(借家)の隣人が小堀さん 小堀遠州の末裔とあり 世界平和旅から帰ったら地域近隣にも私は必ず挨拶し時には食事もご一緒させて戴いていますと
また人生観に衝撃が走りました
以降真実の追求に労苦を厭わなくなりました
センセイくれぐれもお身体大切に
私が真実を証明致します投稿者:建築家鈴木ヨシヒロ&・アリシア他 2023/06/12 (月) 03:11
No.83 名古屋城の設計者は誰か知ってるかい?
時過ぎること39年前
何気なく友と東京八王子
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おみえになられたのは
現在95歳創価学会第3代会長池田大作センセイでした
冒頭『名古屋城の設計者は誰か知ってるかい? 大工さんはダメだよ。』優しく語られました
まわりにいた婦人は徳川家康です
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織田信長です!と答えはまちまち
たまたま中部から来た私は名古屋ど真ん中生まれ
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えーっそんな馬鹿な
おじいちゃんが言ってたもんな
間違えるはずがない
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青年は真実を確かめなさい!
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私の信濃町自宅(借家)の隣人が小堀さん 小堀遠州の末裔とあり 世界平和旅から帰ったら地域近隣にも私は必ず挨拶し時には食事もご一緒させて戴いていますと
また人生観に衝撃が走りました
以降真実の追求に労苦を厭わなくなりました
センセイくれぐれもお身体大切に
私が真実を証明致します