2018
10/20
土
大垣城は大垣市の繁華街にあり、敷地は大垣城公園となっており、護国神社等も併設されて市民の憩いの場となっています。別名を麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)と言います。まずは、商店街から一歩中に入った所に入口の東門があります。この門は「大小姓多門跡」(おおごしょうたもんあと)に「旧柳口門」を移設しております。
門前には「史跡 大垣城跡」と刻まれた石柱が建っております。現在の大垣城は1959年にRC造として外観復元されたものになっています。
東門に付いて北側にあるのが艮隅櫓(うしとらすみやぐら)になります!
東門を中に入ると説明看板がありました(^^)/
大垣城(巨鹿城・麋城)
「大垣城は天文四年(1535)、宮川安定が築城した(明応九年竹腰尚綱の創建とも伝えられる)といわれ、大垣市内を流れる水門川の流れを外堀に利用して築城されました。天守は四層四階建て総塗りごめ様式で、大変優美な城です。
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでは、西軍を率いた石田三成の本拠地となり、その後、寛永十二年(1635)、摂津(兵庫県)尼ヶ崎より戸田氏鉄公が入城し、戸田十万石の居城となり、以後明治維新まで続きました。
昭和十一年には国宝に指定されましたが、昭和二十年の戦火で惜しくも焼失してしまいました。その後、昭和三十四年に、外観を昔そのままの容姿で再建され、城下町大垣のシンボルとなっています。」
と書かれていました。
東門をくぐって左側には「武徳殿」がございました。今は使われているのかわかりませんが、武道場だそうです(^^)/
城内北側より木々の間から見た、大垣城天守になります。
天守の入口です。2010年に外壁が改修されているので壁の漆喰が綺麗です。天守の入場料は100円でした(^^)/
入口前に本丸・天守の変遷が書かれていました↓↓
「元和六年(1620)天守は三階建てから四階建てに改築されました。一、二階の床面積は等しく、上層にいくに従って面積が減少する層塔型天守となり、建物の高さは約十八m、石垣は約六・四mで、東附多門、西附多門が付設され、本丸を囲む曲輪の要所には二重・三重の隅櫓が並んでいました。いずれも白漆喰総塗りごめ造りでした。」
関ヶ原の合戦の模型です。小さい人がいっぱい(-∀-)
改修工事で天守から下ろされた、昭和34年再建時に作成された天守鯱瓦です。
天守からの景観です。大垣駅(北)方面を見ています。
天守最上階から階下の屋根と東門(旧柳口門)を見ています。
本丸(南東)からの天守全景になります。ここから撮影した天守が一番綺麗です(^^)/
本丸南側にありました「鉄門跡」になります。鉄門跡の前には「大垣城本丸城郭図」がありました。これを見ると各場所の名称がよくわかります!
鉄門跡を本丸の西側へ行った所に、西門がありました。絵図によりますと「籏長柄多門」の位置にある復元門だと思います。
西門と天守です。城西広場からの
撮影です。以前から言われているみたいですが、高木が多く天守が見えない。。。たしかに(-∀-)

城西公園にある「戸田氏鉄公騎馬像」です。戸田氏は大垣藩十万石の城主として十一代続いて明治を迎えています。
「乾隅櫓」(いぬいすみやぐら)になります。昭和41年(1966)に復元され、平成22年に天守とともに外観改修されましたので、現在はとても綺麗です。
「水之手門跡」です。右側が乾隅櫓になります。
奥にある立て札がある木が「おあむの松」になります。
「関ヶ原合戦の時「おあむ」は父山田玄暦らと西軍石田三成勢に属し、大垣城に籠もっていた。落城不安が募るある日、東軍から矢文が届き「玄暦は家康手習師匠であったので逃がす」と伝えた。「おあむ」は父母と西堀端の松から堀のたらい舟に乗り移り西岸に上陸、無事に逃れた。のちにその松を誰言うともなく「おあむの松」と称した。」とありました。
城西公園から天守、戸田氏鉄像、乾隅櫓まで含んだ全景になります。
城の南西に位置する大垣城公園の芝生広場です。真ん中の鳥居が「濃飛護国神社」です。
登城記念印は城内で買えます。
場所:大垣城


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