2018
09/08
土
関地蔵院をお参りして、そのまま街道を東へ『関宿』の終点である「東の追分」へ
向かいます(^^)/

街道を振り返ると、古い街並みの街道中心に関地蔵院の本堂と、後ろに鈴鹿山系の山が見える素晴らしい景色が堪能できます。
「旅籠玉屋」さんです。今は歴史資料館になっていますが、旅籠(はたご)としては関宿でかなり有名だったみたいです。亀山市の文化財にも指定されており、昔のまま保存されております。
「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほどだとか(^^)/
関宿に二つあった本陣の一つ「伊藤本陣址」です。本陣は参勤交代の大名や、公家、公用の幕臣などが利用した格式の高い宿泊施設であり、東海道関宿の本陣として栄えたそうです。
ちょっと道を逸れまして、街道から50mくらい北にある『瑞光寺』(ずいこうじ)を訪ねました(^^)/
まずは山門です。山門扁額には「河上山」と山号が書かれています。左にある寺号標には「曹洞宗 瑞光寺」と刻まれています。正式名称は「河上山瑞光寺」で、曹洞宗の寺院になります。
山門横のくぐり戸から中に入り、右手には「鐘楼堂」がありました。
本堂前には亀山市史跡となっている「権現柿」がございました。説明板には
「瑞光寺中興開山豊屋永隆和尚は、三河国(現在の愛知県)宝飯郡に生まれ、幼少のころ徳川家康と親交があった。
永隆の弟子隆眞が、元和元年(1615)に記録した「開山和尚伝」によると、家康は、上洛の際当寺永隆和尚を訪ね、庭先の柿を賞味したことから、後世、この柿を「権現柿」と呼ぶようになった。
瑞光寺は、応安4年(1371)の創立といわれ、小野川の上流にあったが、兵火により焼失した。その後、永禄~天正年中(1558~1591)に、当時の亀山城主関安芸盛信が菩提寺として現在の地に移し再興したと言われている。」
と書かれていました。
本堂左にある「観音堂」全景です。正面入口上の扁額は何て書いてあるのか読めませんでした…(^^;)
観音堂前にあった「観音堂鬼瓦」です。嘉永二年(1849)年の作です。関氏の家門「揚羽蝶」が鬼瓦中心にあります(^^)/
本堂全景です。本尊は釈迦牟尼如来となっています。縁起は先程の権現柿の紹介をお読み下さい(^^)/
本堂前の扁額には「瑞光禅寺」と寺号が書かれていました。お留守のようだったので、庫裡で声を掛けてお参りさせていただき、御朱印を書いていただきました<(_ _)>
改めて街道に戻ります。坂となっているので遠くまで見通せます!この先を進むと江戸へ行きます(^^)/
ようやく「東の追分」に着きました。常夜灯が昔のまま残っています!(〃▽〃)
説明板には、前半部分は先の「西の追分」と同じことが書かれています。後半部分は
「ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっている。」 と書かれていました。
鳥居をくぐって伊勢別街道を伊勢神宮へ行けます。鳥居の右(西)へ行くと京都へ、左(東)は江戸へ行く街道になります。ここが歴史の分岐点になった場所です!(いいすぎ?(^^;))
東の追分は常夜灯と一里塚が目印になっていたようです。
西の追分からの距離は片道1.8㎞、帰りの道中含めると3㎞以上は
歩きました。途中立ち寄ったところも多々あったので、約2時間堪能できました~(≧∇≦)ノ

御朱印
場所:瑞光寺


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