2018
09/06
木
亀山城跡を登城し、次に向かったのは旧東海道の宿場町『関宿』です(^^)/
以前もここで書きましたが、
ウォーキングが趣味なボクは、古い街並みを探訪できる街道歩きがとても好きで、よく旧東海道や中山道・美濃路など
歩いては一里塚や常夜灯を撮影してました。御朱印を集めるようになってからは中々行くこともできず、今回はとても有意義な一日になりました~(≧∇≦)ノ


まずは、亀山市関支所の駐車場に
車を停め、旧東海道の街道に出ます。丁度、角に関地蔵院がありますが、それは後半で(^^)/ 先に街道を西へ
歩いて行きます!


鈴鹿峠とこの古い街並みは、中山道の馬籠宿や妻籠宿に似た雰囲気があります!!めちゃテンション上がります(^^;)
関宿の西の端、「西の追分」まで来ました! 東海道関宿と書かれた石碑があります。右の大きい道路が現在の東海道、国道1号線になります。
西の追分の説明看板がありました。
「関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。
慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられた。古文書によると、天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道・京都方への次の宿は坂下宿で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78キロメートル)あります。大和街道は加太(かぶと)越えをして伊賀から奈良に至ります。」
と書かれていました。
ちょっと
歩くと、西の追分休憩施設がありました。古民家を使用されているようで、昔ながらの土間など過去に行った気分が味わえます。

正面の鈴鹿峠を越える前に、この関宿に泊まり準備をしたんでしょうねぇ~! 又、この街並みを保存するために、個人の各家庭まで統一感を持った規制がされていると思います。(^_-)
関地蔵院前の会津屋さんです。こちらも雰囲気がありますねぇ~! 山菜おこわや街道そばで有名で、ボクも街道そばを頂きました~(^^)/
街道からの『関地蔵院』です。寺号標は見当たりませんでした。山号は九関山(きゅうかんざん)、寺号は宝蔵寺(ほうぞうじ)。院号は地蔵院で正式名称は「九関山宝蔵寺地蔵院」となります。通称は院号の地蔵院をもって、「関の地蔵」「関地蔵院」と称されています。真言宗御室派の寺院になります。
東の塀際の堂前に鹿がいる…馬はよく見ますが(^^;) 後ろの堂は鹿に関連する堂でしょうか?
塀は祠になっていて、それぞれにお地蔵様が祀られていました。
国の重要文化財に指定されている「鐘楼」です。寛永21年(1644年)建立になります。
「明治天皇関行在所」(めいじてんのうせきあんざいしょ)の石碑があります。明治天皇は関町には5回来られたそうです。地蔵院では2回食事休憩されました。この建物で食事したんでしょうねぇ~(^^)/
こちらも国の重要文化財に指定されている「愛染堂」になります。寛永7年(1630年)の建立になります。現在の本堂が建立されるまでは、愛染堂が本堂でした。
ちょっと変わった形の2段屋根の本堂です。本尊はもちろん地蔵菩薩になります。この本堂も国の重要文化財に指定されていて、建立は元禄13年(1700年)になります。
関地蔵院の由来は
「東海道47番目の宿場町として栄えた関の町。ここにわが国最古の地蔵菩薩で知られる地蔵院(通称・関のお地蔵さん)が所在します。
天平13(741)年、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。
お地蔵様は、この世でもあの世でも、あらゆる苦しみから人々を救ってくださる菩薩です。この本尊は数あるお地蔵様の中で、古くから東海道を旅する人々の信仰も集め、多くの人々に敬愛されてきました。
現代でも尚、その円満な顔立ちで、近郷の人々や東海道の旅人たちを迎え続けています。」
と記されています。
本堂前には「地蔵堂」と書かれた巨大な扁額が掲げられています。
手前右にある手水舎にて身を清めてお参りをします。<(_ _)>
続いては、東の追分に向かう内容を次回に(^^)/
御朱印は書き置きもなかったので、白紙に印だけ押して、文字は真似して自分で書きました(^^;)
右上は三重四国八十八箇所の印を押しました。第二十八番礼所となっています。
場所:関地蔵院


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BEFORE「三重城郭めぐり③ 亀山城跡」
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