2018
09/04
火
近くの亀山公園の駐車場に
車を停めて、多門櫓が残る『亀山城跡』(かめやまじょうあと)に行きました(^^)/

まずは、交差点の角に「史跡 亀山城趾」と書かれた石碑がありました。
多聞櫓前に「伊勢亀山城」と書かれた縁起看板がありました。
「 伊勢亀山城は、文永二年(1265)若山(亀山市若山町)に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城であった。ただし、関氏時代のうちに現在の位置に遷されたとされ、発掘調査においても戦国時代末頃の空堀が確認されている。
天正十八年(1590)岡本宗憲(そうけん)が入城後、新たに築城したとされ、この城については、『九々五集』(くくごしゅう)に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。
また、三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したと伝えられるが真偽のほどは定かではない。
寛永十三年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西七00メートル、南北五00メートルに及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、一部は谷をせき止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、西出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿が設けられた。
亀山城の別名については唯一の出典である『九々五集』に姫垣を意味する「粉堞城」(ふんちょうじょう)と記されている。
城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶(ふさよし)が城主となると、以後は石川家十一代で明治維新を迎えることとなる。
明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣、土塁、堀の一部が残されているに過ぎない。多門櫓は、県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として昭和二十八年に三重県指定文化財に指定された。また、石坂門は近年の発掘調査により石垣基礎の一部が発見され歴史博物館前庭に移設されており、わずかではあるが往時の姿を偲ぶことができる。」
と、書かれていました。
東から見た本丸石垣と多聞櫓です。緑の木々が春には桜色に変わります(^^)/
石垣横の坂を下り、南側の石垣下から木々の間に見える多聞櫓です。
多門櫓へ上る北側の階段下からです。看板には「旧亀山城多門櫓」と書かれています。
階段を上がり、北側より多門櫓の全景です。亀山城は別名を粉蝶城(こちょうじょう)と呼ばれ、文永二年(1265年)に関実忠によって築城されました。明治の廃城令によって、殆どの構造物が壊されましたが、現存する多門櫓は原位置のまま残る城郭建築として三重県下唯一のものです。この石垣は本丸南東の天守台で、多門櫓と併せて「旧亀山城多聞櫓」の名称で三重県の史跡に指定されています。
天守台の一段下から、北側の石垣と多門櫓です。多門櫓はつい最近までは木板壁の鎧張りでしたが、江戸末期の姿に戻すため漆喰塗となったようです。
亀山城跡の西側に近接してあるのが「亀山神社」です。
江戸時代中期の延享元年(1744年)、備中国松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けて奉斎したのが亀山神社の創始になります。御祭神は石川氏の祖である源義家公、六男の源義時公、石川義純公、石川家成公です。
境内には市指定有形文化財として「大久保神官家棟門」と言うのがありました。
大久保神官家棟門内には、「亀山演武場」と書かれた石碑があります。
亀山藩御流儀となった心形刀流は「亀山藩御流儀心形刀流武芸形」として、亀山演舞場で伝えられてきました。
更に境内には「史蹟明治天皇亀山行在所遺構」の石碑がありました。
明治天皇が1880年(明治13年)7月10、11日に大阪鎮台・名古屋鎮台兵対抗演習天覧のため、亀山の藤屋でニ泊されたときに玉座として使われた建物が亀山城跡地に移築され残っています。
御朱印(登城記念)
場所:亀山城跡


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