2018
07/04
水
前回まで5回に渡りお伝えした「戸隠神社」参拝でしたが、今回からはもう一つの信州パワースポットである「信州善光寺参り」を数回に分けてお伝えします(。・∀・)ノ
まずは善光寺参道の南側に
駐車し、最初に伺ったのは『善光寺大本願』(ぜんこうじだいほんがん)です(^^)/

敷石が敷かれた善光寺参道を
歩き、大本願の「表門」に到着です!

寺号標の石柱には、「善光寺上人 本坊 大本願」と刻まれていました。
善光寺大本願は、642年(皇極天皇元年)から続く尼僧寺院です。皇極天皇の命により蘇我馬子の娘・尊光によって開かれたそうです。代々の住職は公家から迎えられ、善光寺上人と呼ばれています。
表門を中に入り、左側奥にあったのは「明照殿」になります!
大正3年建立。法要が行われたり、講演・講習会が催されたりしていますが、参詣者の休憩の場にもなっているようです。
明照殿の右側にあったのは「寿光殿」です。
昭和54年の建立でコンクリート造になっています。。。大本願の事務所があり、研修の場となっています。
もうすでに、朱印を求める列でいっぱいでした(^^;)
表書院の前に大本願の配置図がありましたので
パシャ!

寿光殿の右、表門の正面には「表書院」がございました(^^)/
尼公上人が本堂へお上りなど公式行事に使われる玄関となっています。内部は古い型式の広間になっていて、「お授けの間」とも呼ばれています。
表書院の右隣には、大本願の本堂である「本誓殿」がございました。
平成8年に総桧造りで再建された新しい本堂です。ご本尊は、善光寺一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)となっております。
「善光寺大本願は、善光寺如来が遷座された642年(皇極天皇元年)から続く尼僧寺院です。
皇極天皇の命により蘇我馬子の娘・尊光によって開かれました。
代々の住職は公家から迎えられ、善光寺上人と呼ばれます。
善光寺上人とは、宮中から上人号と紫衣の着用が勅許された称号で、尼僧では伊勢の慶光院、熱田の誓願寺とともに日本三上人と称されていましたが、現在では善光寺上人のみがその法燈を伝承しています。
戦国時代、武田信玄によって善光寺如来が甲斐に移され(甲斐善光寺)、武田氏滅亡後は各地を転々とする中、大本願の尼僧は善光寺如来に付き従い、本尊不在の寺地は大勧進の僧が守っていたのだという。
1876年(明治9年)、大勧進を天台宗、大本願を浄土宗とする寺務分掌が行われ、大本願は1954年(昭和29年)に浄土宗の大本山となりました。
現在の善光寺は、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願により運営されておりますが、善光寺上人は、大勧進貫主とともに善光寺の住職を勤めています。
善光寺山内には大本願が管轄する14坊があり、大勧進の25院とともに宿坊が営まれています。」
本堂前にてお参りをさせていただきました<(_ _)>
境内の北側、本堂前には水子地蔵尊が祀られておりました。この時はわからなかったのですが、奥にある白い塀の北側にも「位牌堂」や「宝物殿」といった建物があったようで、今回は報告はありません(^^;)
本堂前に通じている「唐門」は外からの1枚です。「大本願」と書かれた扁額や屋根の緑青に時代を感じます。
西側の塀際には「文殊堂」がございました。
「善光寺上人第百二十世一條智光台下が青少年の健全育成と普く人々の幸せを願って、知恵を司る文殊菩薩、人々の幸せを願う普賢菩薩をお祀りして、平成元年十一月落慶しました。」
と書かれていました。
文殊堂の右にあるのが、朱印などを書いていただける頒布所です。
右の大きい建物が「文殊堂」、左が「本理院殿」になります。
本理院殿はかつて、善光寺にあった霊屋に、徳川三代将軍家光の御台所・孝子(本理院殿)の遺骨の一部が納められていましたが、焼失したため1832年(天保3年)、大奥18名によってこの地蔵尊が奉建されました。
頒布所の横には「ひとにぎり地蔵」が祀られていました。
「善光寺上人第百二十一世鷹司誓玉台下が、不安要素の多い現生において、普く信徒の幸せを願い、平成二十四年十二月建立されました。辛いとき、哀しいとき、苦しいとき、左手で力をいれてギュッとひとにぎり、安らぎとみなぎるパワーを頂けるでしょう。」
と書かれていました。
善光寺本師如来の御朱印
文殊菩薩の御朱印
ひとにぎり地蔵の御朱印
とここでは3枚の御朱印をいただきました~(^^)/
場所:善光寺大本願

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