2018
04/29
日
3月に入ったと言うのに、小雪が舞う中やって来ました岐阜関ヶ原は『妙応寺』(みょうおうじ)です(^^)/
国道21号とJR東海道線の高架下をくぐった向こうに境内があります!
手前の広い駐車場に
車を停めて、後ろの城山を入れて全景を1枚
パシャ!


ちょうど一枚目の
写真を撮影した道路が中山道となっていまして、ここは今須宿の本陣跡となっています(^^)/ 近くには一里塚や常夜灯もあり、ボクにはヨダレものの場所です(^^;)

参道右側の寺号標には「曹洞宗 青坂山 妙應寺」と旧字体の応で書かれています!
山号は青坂山(せいばんざん)、寺号は妙應寺で正式名称は「青坂山妙應寺」となります!岐阜県最古の曹洞宗の寺院です(^^)/
いつも見る西美濃三十三霊場の石碑です!妙応寺は第十八番礼所となっております
昔はこんなトンネル(高架下)はなかったんでしょうけどね…(^_-)
トンネル抜けたら山門でした(^^)/ 立派なシャチホコがいます!
妙応寺の略縁起です
「当寺は正平十五年(1360)に今須領主長江重景が創建した、県下で最も古い曹洞宗寺院です。
その後土地の寄進で経済力は伸長し、徳川政権下での寺領高二十石の安堵は、明治維新前まで永く続きました。
宝物館には、町重文の文書をはじめとして当地出身の喜田華堂筆の縁起絵巻などが展示されています。」
と書かれていました(^^)/ 「徳川家康腰掛石」については後ほど写真と一緒に!
山門くぐって正面に見えるのが本堂です!
右手には塀と一体となっている鐘楼堂がございました(^^)/
ここ妙応寺は山門から鐘楼堂など全ての建物が回廊で結ばれており、中々素晴らしい造りとなっています!
水盤です! 普通の手水舎はなかったのでこの水盤で身を清めました!
超巨大な鬼瓦が飾られていました!これだけの鬼瓦だと、どれだけ大きい建物だったんだろう?(^_-)
しかも中には観音様までいました(^^;)
鬼瓦の後ろに建っていたのが庫裡の「大庫院」です! 玄関に「香積界」と書かれた扁額がありました
玄関と本堂です!
本堂内には五百羅漢が整然と並べられているそうです!機会があれば是非見てみたいものです(^o^)
不思議な力の宿る今須の徳川家康公天下腰掛石です!
「関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長五年(1600)九月十六日、近江佐和山へ軍を進める途中、ここ今須宿の伊藤家で一休みしています。
これはその時に家康が庭で腰掛けたという石で、江戸時代を通じて本陣の指定を受けていた当家は、代々これを大切にしてきました。
しかし、明治三年(1870)の本陣廃止以後は、当境内に移して公開展示保存されることになったのです。」
と説明がありました!
本堂正面です(^^)/ 岐阜県最古の曹洞宗の寺院だけ有り荘厳な雰囲気があります!
のし瓦にある「左三つ巴」の紋は長江重景の家紋なんだろうか?(^^;)
本尊は釈迦如来となっております!
妙応寺の歴史は
「青坂山妙応寺の創建は正平15年(1360年)、当時の今須城の城主長江重景が母親である妙応尼の菩提寺を弔う為、峨山禅師(当時の能登国総持寺、道元の4代後の弟子)を召還し開いたのが始まりとされ、寺号は母の戒名に因んでいる。伝承によると妙応尼は生前悪行を働いていた為(年貢を徴収する際は大きな枡:1.3升枡で計り、与える時は小さな枡:0.8升枡で計ったとされる)、成仏出来ずこの世で古い御堂に棲み付き毎晩のように悪鬼から咎められていた。
大徹禅師(峨山禅師の法嗣)が巡錫の折、その御堂に泊まり一部始終を見て、長江重景に報告すると母親の悪行を自らの善行によって打ち消す事を誓い、寺院を創建すると峨山禅師を開山者として招き、大徹禅師は2代目になったと伝えられている。妙応寺は領主の菩提寺として庇護され、寺運も隆盛したが、応仁の乱後長江家が没落すると庇護者を失い、一時衰退する。江戸時代に入ると寺領20石が安堵され、さらに中期以降は京都伏見宮家の祈願所として庇護された事で再び隆盛した。」
本堂西側には今須稲荷堂、座禅堂がございました(^^)/
今須稲荷は東海四十九薬師霊場の第十三番札所にもなっています!
座禅堂には「選佛場」と書かれた扁額が掛かっていました
本堂前です!扁額には「薪盡火滅道場」(薪尽火滅:しんじんかめつ)と書かれており、入口の石柱にも同じ文字が書かれていました! 調べてみましたら、仏教で釈迦の入滅のことを言ったもので、そこから人の死を言うようです!(^_^)
本堂の中に入りお庫裡さんに挨拶し、お参りさせていただきましたm(_ _)m
中には木彫りの仁王像が睨みをきかせていました(^^;)
西美濃三十三霊場の御朱印
場所:妙応寺

この記事と関連する記事
AFTER「美濃新四国八十八ヶ所の願成寺」
BEFORE「美濃新四国八十八ヶ所の医王寺」
COMMENT