2018
04/23
月
金剛寺に続きましては
車で数十分の場所にある『瑞巌寺』(ずいがんじ)に行きました(^^)/

お寺の手前の駐車場に車を停めて、最初にあったのが西美濃三十三霊場の石碑でした!瑞巌寺は第十一番礼所になっております(^^)/
入り口手前には「瑞巌報国禅寺之全景」と書かれた絵地図がありました!
正式な寺号は瑞巌報国禅寺だそうです!山号は萬松山ですので正式名称は「萬松山瑞巌報国禅寺」となります(´ー`)ノ 臨済宗妙心寺派の寺院です!
入り口にあった小さい寺号標である石柱に「瑞巌報国禅寺」と書かれていました!
入り口から最初に見えたのは、ひときわ背の高い「開山杉」です(^^)/
開山の時からあるのなら、樹齢700年程の木と言うことになるのかな(^^;)
御幸橋を渡り、開山杉を後ろにして90度西を向いて進みます!
キレイに整備された参道の向こうに山門が伺えます!
「後光厳天皇勅願所」と書かれた石碑が山門前に建っておりました!
「文和2年6月に後光厳天皇が都での戦乱を避けて、瑞巌寺の小島頓宮へお入りになられ、8月まで滞在したことにより、瑞巌報国禅寺と勅額を賜りました。」
と、駐車場にあった「小島頓宮之碑」に書かれていました
立派なしゃちほこがある山門です! 扁額には山号である「萬松山」とあります
山門をくぐって左手には素晴らしい庭園と、鐘楼堂がございました(^^)/
右側には大きな庫裡がございました(^^)/
庫裡と本堂の間にあるのは玄関です!・・・・・玄関だよね?(^^;)、正面の扉が何故か障子になっちゃってますが(-∀-) 内障子かな??
玄関の左にあるのが本堂です! 山門の正面にあります(^^)/
本尊は地蔵菩薩になります!
瑞巌寺の沿革は
「萬松山瑞巌寺は岐阜県揖斐郡揖斐川町瑞岩寺に境内を構えています。瑞巌寺の創建は天平年間(729~749年)、奈良時代の高僧と知られた行基菩薩が全国を巡錫し当地を訪れた際、霊地と悟り、一宇を設けると自ら地蔵菩薩を彫刻し安置したのが始まりと伝えられています。
建武3年(1336)、美濃・尾張・伊勢守護職土岐頼康が父親である土岐頼清の菩提を弔うために大林善育を招いて本格的な寺院として開山、頼清の法名「瑞巌寺殿祥雲善孝大禅定門」に因み瑞巌寺と号しました。
文和2年(1353)、北朝の後光厳天皇が兵乱を避ける為、美濃の小島頓宮に迎え入れた事で「萬松山瑞巌報国禅寺」の勅額を賜ると、勅願寺の道場として支院六ケ寺を擁するなど寺運が隆盛しました。その後、応仁の乱や文明の兵火で堂宇を焼失するなど衰退しましたが寛永年間(1624~1644年)大垣城の城主岡部長盛が空山を招いて中興開山し堂宇が再建されています。その後も瑞巌寺は歴代大垣城の城主が庇護され現在でも戸田氏歴代の黒印状を所有しています。」
本堂前です!中に入りお参りさせていただきましたm(_ _)m
境内南の端っこにあったのは経蔵です! 円空仏など文化財は多数あるようです
境内西の山の手前には大岩が祀られていました
大岩さんのいわれ
「「紫雲石」といいます。天平年間、行基菩薩が諸国巡業の旅をされて霞間ヶ谷を歩いておられました。ふっと、空を見上げると、紫の雲がたなびいていましたので、とても不思議に思われ、その雲の出所をさがしてこられました。そうしたら、大きな岩の割れ目から出ていました。たいへん霊感をお感じになられ、そこにお堂を建てられ、仏さまをおまつりされました。
霊験あらたかで、痛いところに利いたり、頭の良くなる岩と言われます。」
庫裡に戻り、住職に御朱印を書いていただきました~
場所:瑞巌寺

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