2018
03/06
火
本日は養老山脈の山中腹にある『行基寺』(ぎょうきじ)に行きました~(^^)/
別名を「月見寺」、「隠れ城」とも呼ばれ、近くには道の駅 月見の里や温泉 月見の森がございます!
以前こちらには6年ほど前に、

高さは大したことがないんですが、勾配がきつくてかなり疲れた記憶がありました!
やっぱり

まずは行基寺の駐車場にあります、「御山の燈台」です(^^)/

ボクは旧街道を歩いて、昔の常夜灯や道標、一里塚などをウォッチングするのが趣味でして、
その延長で御朱印にはまってしまったと言う経緯がございます!(^^;)
この御山の燈台は復元されたものではありますが、昔の人はこの明かりを頼りに街道を歩いたんだなぁと思うと、昔の情景が浮かんできます(-_-)
御山の燈台の沿革です

伝 御山の燈台
「当山臥龍山記によると、天平の昔(千二百五十年前)このお山臥龍山に大寺院が建立され、この地に仏舎利塔と、一丈余尺(三米余)の石積みによる高燈籠が築かれた。この高燈籠は、常夜燈として遠方の人々から菩提山(臥龍山)の燈台、法燈様として崇められていた。
戦乱時には、狼煙台として使用された事もあるが、鎌倉末期南北朝の頃、兵火により寺院と共に崩れ焼失した。
その後、江戸中期宝永の初め、当地高須藩主松平家初代義行公が行基寺再建の際に再び築かれ、揖斐・長良・木曽の三大川を行き交う船の標識と夜間の目印を示す御山の燈台(燈標)としての役割も果たした。
時を経て平成の今、先人の残した多くの文化遺産が消え行くことを惜しみ、当時の資料・伝承に基づき、伊藤源一氏が再び復元されたものである。」
駐車場(道路際)には、見逃しがちな石柱がありました!
「臥龍山」の文字と「寛永七」の文字が伺えます!1630年からあったんでしょうか!?

石垣が積まれた塀です! なんか要塞みたいです(^_-) こういうのは城郭って言うんですかね?

濃尾平野が一望できます(^^)/ 縮小したこの写真ではわかりませんが、真ん中には名古屋の高層ビル群があります!

左に写っているのが楼門です! 右は庫裡だと思います…

風格のある楼門です! 文政3年(1820年)の建立(再建)になります

楼門2階部分には「臥龍山」と書かれた扁額がございました!

先程から出ています臥龍山がこちらの山号になります!寺号は行基寺で正式名は「臥龍山行基寺」です!
岐阜県海津市にある浄土宗の寺院になります!
またここ行基寺は行基入定の地との伝承がございます!
楼門の扉には、徳川葵の御紋がございました~(≧∇≦)ノ
徳川家との関係は、後ほどの「行基寺の沿革」にて

楼門の横には西美濃三十三霊場の石碑がございました(^^)/
こちらは第二十七番礼所となっております

楼門をくぐった境内参道の突き当たりにあるのが本堂になります!

参道右手には刻紋石がありました! 刻紋石の看板によりますと…

「慶長十八年約四〇〇年前、名古屋城築城のおり、当山(臥龍山)一帯より採石された河戸石の一ツである。
当時この地域には蜂須賀阿波守、細川越中守、鍋嶋信濃守ら三人の西国大名が出向き、多くの石材(河戸石)を採石している。~」
これが七重塔かなぁ~と思って調べていたら4mもないし…(^^;)アレレ

海津市(岐阜県)指定文化財の七重塔は…
「高さ約4メートルの七重の石塔で、建武・元弘(1330年代)の兵乱に焼け残ったといわれ、当時は本堂裏山の上にありましたが、山崩れの危険をさけるため、天明元年(1781)現在地(行基寺境内)に移されました。」
とあります! よく捜したら、先程の境内参道の写真左端にそれらしきものがありました(^^)/
本堂です! 現在の本堂は天保3年(1832年)再建されております!
本尊は阿弥陀如来となりま~す(≧∇≦)ノ

行基寺の沿革は(行基寺ホームページより)
「天平の初め頃(約1300年前)、当時、大仏建立の勧進のため諸国を行脚していた行基菩薩が聖武天皇の勅願を得て、美濃・尾張・伊勢の三国の守護霊場山として、この地に七堂伽藍を尽くした菩提寺が建立されたのが始まりです。当山内には行基塚があり、天平宝字元年二月二日に行基菩薩が八十二歳でご入寂されたと伝えられる場所には板碑、七重の石塔(共に重要文化財)が今も残っています。
南北朝の動乱期(約700年前)、当山は戦乱の際の兵火により全山焼失してしまいましたが、尾張津島の領主ならびに信徒らが、再びこの臥龍山の地に伽藍を建立されました。
東山天皇の元禄年間(約300年前)、尾張藩二代藩主徳川光友公の次男である松平義行公(徳川家康公の曾孫)が、美濃高須藩の藩主として封ぜられるにあたり、当山を松平家の菩提寺として境内および全伽藍を城郭に見立てて改築し、宝永二年(1705年)に完成しました。
その後、行基寺は明治維新に至る160年間は一般庶民の登山参詣は禁止されていました。今もなお、松平公ご使用のお駕籠、調度品等々がそのまま残っており、中でも当時使用されていた約2m大の櫓時計は今も時を伝えています。」
*徳川家との関わりはこちら
本堂前にてお参りをさせていただきましたm(_ _)m
本堂の扁額には「菩提院」とあります!松平家の菩提寺だったからでしょうか?

観音堂(扁額に真影堂とありました)です!

観音堂前でもお参りをさせていただきましたm(_ _)m

寺務所にて御朱印を書いていただきました~!

西美濃の朱印

何て書いてあるんだろう…

場所:行基寺

この記事と関連する記事
AFTER「美濃新四国八十八ヶ所の林陽寺」
BEFORE「[岐阜県] ぎふ七福神の龍雲寺」
COMMENT