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大人の事情 ~御朱印ライフ~

付き合いで始めた寺社(御朱印)巡り、今じゃ週末のライフワークになりました~♪

2018 02/14

美濃新四国八十八ヶ所の一乗寺


前回から一週間ぶりの本日最初は、岐阜県羽島市にある『一乗寺』(いちじょうじ)に行きました(^^)/

道路からの入口前の写真です!真っ直ぐ延びた参道の両脇には観音様とお地蔵様がおられました
中央には「厄除 弘法大師霊刹」と書かれた石柱がございました(^^)/

一乗寺 入口全景



右側には「臨済宗 小熊山一乗寺」の石柱もございました(^^)/

いろんな方のブログを拝見すると、秋の紅葉が素晴らしい参道のようです♪

一乗寺 石柱



入口左には一乗寺の由来がございましたので下に記しておきます

一乗寺 由来

一乗寺の由来は

「弘仁十年(819)弘法大師(空海)の開基で真言宗の寺院として境内18町歩余の広い区域に七堂伽藍を建立せられ、 大師自ら橋杭で延命地蔵菩薩の尊形を彫刻せられ、七間(12.6m)四方の堂に安置し、
『朽残る真砂の下の橋はしら 又道かえて人わたすなり』
と歌を詠まれた。当時は、寺中に十二坊があり尊信の中心となっていた。
 時を経て源頼朝は、この菩薩の奇瑞を厚く信仰し、文治三年(1187)武運の祈願をした所、 冥利に依って勝利を得た為、本堂を再建したが後に兵火にあい寺院建物が全部消失した。 このことを霊夢で知った源頼朝は、再び伽藍を建築し、手当として千両目の団金に、
『朝日さす 夕日かがやく 木のもとに こがね千両 後の世のたから』
と一首の和歌を添えて付与したという。
 時代は下り、織田信長が岐阜在上の時、この菩薩の霊威のある事を知り、永禄十一年(1568)菩薩を岐阜に移したが、 天正二年(1574)三月の初めのある夜、この菩薩が枕頭に立たれ、元の地に帰りたい旨を告げられた。 帰すことを惜しんだ信長は、尊像を留めてその地を小熊と改め今にその地名を残している。
 その後、一乗寺は一時衰退したが、万治元年(1658)に臨済宗の寺として江西大和尚によって開山された。 当寺に現在安置してある地蔵菩薩は慈覚大師の彫刻で、開山した江西大和尚が尾張国田嶋村から請い受けて空堂に安置したものである。 さらに、貞享二年(1685)冬の頃、当山第三世月空和尚に『汝 我を信じる事久し 其心なんぞ空しからんや、先の尊蔵は彼地に在りといへども 神此処に在す 弥(いよいよ)供養を怠ることなかれ』という霊夢があった。その後老禅師は不二冥合の尊像と崇め、諸堂をことごとく再建した。 時に元禄十年(1697)でこの寺の中興の開山と称している。
 また、治承・寿永の乱(源平合戦)の墨俣川の合戦、養和元年(1181)は墨俣と西小熊(一乗寺付近)が主戦場となり多くの戦死者がでた。 この戦死者の弔いのために誓浄寺(せいじょうじ)と本養寺(ほんようじ)が建立され、多くの五輪墓石が造られたが、天正14年(1586)の大洪水で寺とともに流されて散逸してしまった。 昭和初期からの長良川、境川河川の改修によって、多くの五輪墓石が出土しその一部が寺に無縁墓石として安置され、墨俣川戦いの激しさを今に伝えている。」




参道です!冬は枯れ木でもの悲しさが漂います(^_-) 奥に見えるのが山門です!

一乗寺 参道



山門です! お馴染みの美濃新四国八十八ヶ所のナンバープレートも伺えます

一乗寺 山門



山門の手前右側には鐘楼がございました(^^)/
奥にあるのは庫裡や関係者のお住まいのようです

一乗寺 鐘楼



山門をくぐって中から建物等の全景になります!
右が本堂です!現在は屋根の改修をおこなっているようです!左は名前はわかりませんが弘法堂(大師堂)のように思われます

一乗寺 境内建物



弘法堂です! 右下にはお砂ふみ所がございました
弘法堂にてお参りをさせていただきましたm(_ _)m

一乗寺 弘法堂



改修中の本堂全景です!

一乗寺 本堂

石柱にありましたが、臨済宗妙心寺派の寺院になります!
山号は小熊山、美濃新四国八十八ヶ所の第三十五番札所となっております(^^)/

本尊は阿弥陀如来となります!



美濃新四国の納経印です

一乗寺


場所:一乗寺



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