2018
02/12
月
前回では西美濃三十三霊場関連でまとめさせていただき、
山門と観音堂本堂の紹介だけでしたが、今回は前回ご紹介していない事を綴っていきます(^^)/
『来振寺』(きぶりじ)は、岐阜県揖斐郡大野町にある寺院です!
入り口には「南無観世音菩薩」ののぼりが建っています
左端の石柱には「弘法大師」の名が刻まれています

参道右側のお砂踏み霊場になります(^^)/
美濃新四国のお砂踏みかと思っていましたら、「西国三十三観音」と看板にありました…
観音?…西国三十三観音となると、また違ってくるような…(^^;)

お砂踏みを過ぎると「弁天堂」がございました

「長屋門」です!左の祠は「水月観音」と記されていました(^^)/
この左側に前回紹介した山門がございます!


長屋門をくぐった正面には庫裡がございます!納経所も庫裡にありました

本堂側(左)を向くと立派な庭園に宝篋印塔が2つございました

境内参道の奥に見えるのが大師堂(金堂、本堂)です!右側の建物は客殿になります!

大師堂の階段前には「地蔵堂」がございました!

大師堂全景です!

来振寺の歴史、縁起は
「真言宗智山派来振寺は山号を宝雲山と号し、霊亀元年(715)行基菩薩により法相宗の新福寺として開山された。神亀2年(725)寺の裏にあたる白山の一面に黄金色の雪が降り積もったと伝えられる(来振大神御降臨の神詞あり)。それを伝え聞いた聖武天皇の勅号により七堂伽藍十二坊を建立し、勅願寺来振寺と改称する。承平7年(937)真言宗に改宗した。中世には、多くの僧兵を有する大寺院だったと伝えられている。この後、寺は不遇に見舞われる。享禄3年(1530)根尾川の大洪水により寺領を流失、また永禄3年(1560)には織田信長の兵火により伽藍相貌を焼失し、二百数十名の僧兵が離散する憂き目にあう。しかし慶長・元和年間、豊臣秀吉・徳川家康の朱印状を受け寺領を得て再興。宝永6年(1709)には、当山出身の義山僧正が智山第十二世管長就任にあたり、現本尊の十一面観音を当山に寄進、また各堂字を中興した。昭和47年(1972)大師堂、同56年(1981)本堂、同60年(1985)には山門をそれぞれ再建し、着々と境内を整備した。また数多くの寺宝を有し、2004年には五大尊像が重要文化財から国宝に格上げされた。」
国宝に絹本著色五大尊像がございます!
奈良国立博物館に寄託されており、大師堂に複写があり、正月・節分に公開されます(^^)/
大師堂前にてお参りをさせていただきましたm(_ _)m
来振寺について色々調べてみましたが、弘法大師についての記述が全くなかったのが不思議でした(^^;)

美濃新四国の納経印になります(^^)/

場所:来振寺

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BEFORE「西美濃三十三霊場の来振寺」
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