2018
01/01
月
三重県津市に単身赴任になって初めて訪れたのは『野邊野神社』となりました(^^)/
現場からは約5キロの所にあり、ウォーキング

まずは、入口の石柱です!「野邊堅神社」となっています(・∀・)?
何故【堅】という字が使われているのかよくわかりません(^_-)

石製の鳥居です!両脇には「藤堂高通公 久居藩祖」ののぼりが建っております
相殿神として藤堂高通公もここの祭神となっております

境内内の参道です!突き当たりに拝殿が伺えます

参道途中に大きな神木がございました(^^)/

その左手には手水舎がありましたので、清めます

境内社の「久居英霊殿」です!表忠碑もございました

こちらも境内社の「野邊野稲荷社」です

拝殿横にあったのも境内社の「野邊野天満宮」になります!

拝殿です!
御祭神は主祭神に品陀和気命(第十五代・應神天皇)、相殿神に迦具土命、藤堂高通公(久居藩祖)、外十三座となっております!

拝殿前にてお詣りをさせていただきましたm(_ _)m

野邊野神社の御由緒は
「久居は昔「野邊野」と呼ばれていて、寛文九年(1669)に藤堂高通公(津藩祖である藤堂高虎公の孫)が分封の命を受け、この地に城を築き城下町を建設せられた。永久に鎮居するという願いを込めて「久居」と名付け、久居藩が生まれた。領内の小戸木村(旧鹿嶋村)に鎮座されていた八幡宮(創祀年代不詳)が「大守の御氏神・久居中の守護神」として崇められ、寛文十年(1670)十月二十日に小戸木村から御殿の鬼門(艮)の方位に当たる現在の地へ遷され、久居八幡宮として鎮座した。古くは神輿の担ぎ手は小戸木の青年に限られていた時代もあり、小戸木村は末代まで古氏子と言われる。
同年には醍醐寺三寶院の御直末寺として真言宗久居山長開寺福寿院が開基され、修験道場で藩主の元服式や厄除けの神事・領内の祈祷が行われた。当時は神仏混合であり、境内には八幡宮・宝殿・護摩堂があり、八幡宮の祭祀が別当により行われた。
爾来久居の総守護神・藩の祈願所として、代々藩主をはじめ領内住民の篤信を集め、祭礼等は藩を挙げて盛大に斎行された。芝居・狂言の他に奉納相撲などは江戸より力士を招き藩士や町人の力自慢も加わり、殊に賑やかに行われた。
明治維新の廃仏毀釈によって長開寺が廃寺となり、合祀は三重県では殊に著しく県内の神社が七分の一以下になり、明治四十一年四月に、久居城の築城と同時に帰依によって火除のために勧請された万町鎮座の愛宕神社(迦具土命)・久居藩祖である藤堂高通公の高徳を追慕して建立された西鷹跡鎮座の久居神社・外二十一社が久居八幡宮に合祀された。また社名が土地の旧名に因み「野邊野神社」と改称された。
廃藩後も毎年一月一日に久居藤堂家、二日には津藤堂家より幣帛が奉られた。明治三十九年に神饌幣帛料供進社に指定され、社格として村社に列せられた。
大東亜戦争終戦とともに社格が廃止され、津空襲があったが久居は戦災を免れた。但し、久居出身の戦没者を偲び、昭和四十一年四月に以前から境内にあった表忠碑の傍に久居英霊殿が造営された。神域での教育環境が幼児期に最良と考え、昭和四十四年に学校法人野辺野学園を設立。のべの幼稚園を開園し、翌年に九州・太宰府天満宮より御分霊を奉戴し、境内社として「野邊野天満宮」を鎮座。
平成二十四年十一月、本殿には県の銘木である尾鷲檜・幣殿は太平洋鉄木・土間拝殿にはバルセロナ産の石を用い、世界中から最良の材料を集めて建てられた神明造りの本殿と唐破風向拝寄せ棟造りの社殿が落成し、氏子崇敬者のご奉賛により野邊野神社の大神等の御神威が増された。久居はその名の通り気候温暖にして災害もなく、御神徳の賜と永久鎮居を祈る氏子・全国の崇敬者の篤い信仰を集めている」
社務所に行くと、なんと外人さんが出てこられその方に御朱印を頂きました~(^^)/
調べてみたらオーストラリアの出身で神主を務められているそうです(^^;)

ボクより達筆な御朱印~♪

場所:野邊野神社

この記事と関連する記事
AFTER「美濃四国第一番礼所の善光寺安乗院」
BEFORE「美濃四国八十八ヶ所の正法寺」
COMMENT