2017
12/10
日
今日は土砂降りの雨の中でお参りとなりました(^^;)
本日最初は、以前行った岐阜の垂井町にある南宮大社の奥にある『真禅院』(しんぜんいん)に行きました(^^)/
参道入り口には「朝倉山南神宮寺」と刻まれた石柱がございました。
美濃国一宮の南宮大社の元神宮寺のため、そう書かれているみたいです。山号は「朝倉山」、正式名称は「朝倉山 真禅院」 (あさくらさんしんぜんいん)です。階段を昇ったところに石柱の山門がございました。
入ってすぐのところに「十王堂」がございました。
真禅院の縁起が書かれておりましたので
パシャ。

「当寺は今から1250年前の創建で、開基の行基菩薩、自ら本尊阿弥陀如来尊像を彫刻され象背山宮処寺と名付け、本州阿弥陀如来四十八願の霊刹の第34番札所とお定めになったのが天平11年(739)2月であり、その翌年12月2日には聖武天皇が不破頓宮より宮処寺及び曳常泉へ行幸されている(続日本記・日本記略)。その後、延暦の年、勅命により比叡山延暦寺宗祖伝教大師により南宮神社と両部習合され寺号を大神宮寺と改められた。
その功徳は天慶2年(839)の平将門叛乱のとき、朱雀天皇の勅命により将門調伏祈願のため延暦寺僧明達阿?梨(あじゃり)助修僧20人と共に南神宮寺で秘法を修したところ、結願のとき将門首級到着で、その法験を御嘉賞になり法躰殿の勅額と若干の寺社領を下賜された。(扶桑略記、帝王編年紀、元享釈書)(此時十禅師社を造営し弟子10人を社僧とす=十坊設置)
ついで後冷泉天皇の康平2年(1059)正月には安倍貞任追討の御祈願あり、その霊験により法性大菩薩の刺額と若干の寺社領を賜った。このように霊験により篤い信仰を得たが、文亀元年(1501)4月の火災で諸堂社灰燼となったので、諸方に勧進し、時の美濃守護土岐政房に訴願したところ、政房これを諸司に命じて復旧に着手、11年後の永正8年(1511)漸く竣工となった。
くだって天正17年(1589)11月16日豊臣秀吉より供田として160石、寺社堪忍分として200石の朱印は、家康の代(慶長14年10月20日)に405石の朱印状となったが、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦で、諸建築は兵火にかかり烏有に帰した。
よって南宮権現執行利生院、永純、本寺の東叡山寛永寺住職(開基)、慈眼大師天海大僧正(徳川幕府の政務に関与)に再建を嘆願、時の大御所(家康)これを了諾するも戦後とて捗らず、ようやく徳川三代将軍家光により造営の運びとなり、寛永19年(1642)9月11日に再興されたが、明治初年神仏習合廃止(神仏判然の令)により南宮社執行真禅院秀覚法印22堂塔坊舎を統廃合し、村人の絶大な奉仕によりこの地に移し、朝倉山真禅院となし、現在に至っている。
通称世人に朝倉山と親しまれ、時には朝倉寺ともよばれている。」
その功徳は天慶2年(839)の平将門叛乱のとき、朱雀天皇の勅命により将門調伏祈願のため延暦寺僧明達阿?梨(あじゃり)助修僧20人と共に南神宮寺で秘法を修したところ、結願のとき将門首級到着で、その法験を御嘉賞になり法躰殿の勅額と若干の寺社領を下賜された。(扶桑略記、帝王編年紀、元享釈書)(此時十禅師社を造営し弟子10人を社僧とす=十坊設置)
ついで後冷泉天皇の康平2年(1059)正月には安倍貞任追討の御祈願あり、その霊験により法性大菩薩の刺額と若干の寺社領を賜った。このように霊験により篤い信仰を得たが、文亀元年(1501)4月の火災で諸堂社灰燼となったので、諸方に勧進し、時の美濃守護土岐政房に訴願したところ、政房これを諸司に命じて復旧に着手、11年後の永正8年(1511)漸く竣工となった。
くだって天正17年(1589)11月16日豊臣秀吉より供田として160石、寺社堪忍分として200石の朱印は、家康の代(慶長14年10月20日)に405石の朱印状となったが、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦で、諸建築は兵火にかかり烏有に帰した。
よって南宮権現執行利生院、永純、本寺の東叡山寛永寺住職(開基)、慈眼大師天海大僧正(徳川幕府の政務に関与)に再建を嘆願、時の大御所(家康)これを了諾するも戦後とて捗らず、ようやく徳川三代将軍家光により造営の運びとなり、寛永19年(1642)9月11日に再興されたが、明治初年神仏習合廃止(神仏判然の令)により南宮社執行真禅院秀覚法印22堂塔坊舎を統廃合し、村人の絶大な奉仕によりこの地に移し、朝倉山真禅院となし、現在に至っている。
通称世人に朝倉山と親しまれ、時には朝倉寺ともよばれている。」
岐阜県重要文化財の「鉄塔」です。北条政子が源頼朝の菩提を弔うために寄進されたもので、現存は全国に三塔のみ。関ヶ原合戦時に破損し初層と二層部分のみ現存しています。
「観音堂」垂井町指定の有形文化財となっています。本尊は十一面観世音菩薩になります。
観音堂は旧宝珠院と言う名前で南宮大社奥之院となっていました。西美濃三十三霊場の第十七番札所でもあります。観音堂前にてお参りをさせていただきましたm(_ _)m
御朱印の書かれている物もありましたので、300円を賽銭として入れていただきました。
「護摩堂」です。本尊は不動明王。
その隣で工事してたのが、国の重要文化財である「本地堂」です。
平成の大修理をしてまして見られませんでした┛)"0"(┗ ガーン!!
参考写真ですm(_ _)m
「釈迦堂」になります。弁財天、薬師如来が祀られています。
「薬師堂」です。本尊は薬師如来。
「鐘楼」は岐阜県の重要文化財、吊られている「梵鐘」は国の重要文化財になります。
最後にこの寺院一番の見所となりました「三重塔」です(^^)/
晴れてたらもっと綺麗だろうな~と思いました(´ー`)ノ
最後にお声掛けさせていただき、美濃七福神「大黒天」御朱印を書いていただきました~♪
と、本尊の御朱印です~
場所:真禅院


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