2017
12/06
水
長間薬師寺を後にして、次に向かったのは『中観音堂』です(^^)/
薬師寺からはほど近く、ここもまた円空にゆかりのある場所となっています!
駐車場に着き、全景を1枚

円空資料館が左にあり、とても寺院には見えない雰囲気となっております

駐車場から至る処に円空仏のレプリカが飾られております!

先ほどの長間薬師寺と同じデザインの説明板がありました(^^)/

中観音堂の伝説
「中村観音像の本尊を彫刻しようとした円空上人は、その用材を長良川の上流地方で入手、「中村行」と記して川に流した。日ならずして、平方村(現福寿町平方)付近に流れ着いたのを対岸安八郡中村(現安八町)の人々が発見し大勢で自村の方へ引き上げようとしたが重くて少しも動かなかった。しばらくした頃その報を聞いて駆けつけた中島郡中村(現羽島市上中町中)の人々が引き上げた瞬間、何事もなかったように用材は軽々と上がったという。そこで対岸安八郡中村の人々は何も言わずに立ち去った。
中村観音堂の本尊である十一面観音像は、背面に四角にくりぬいたあとがあり、その中に円空上人の使った鉈が入っているという。しかし、これを見た者は目がつぶれるといわれていてまだ見た者はいない。」
中観音堂が所蔵している円空仏の説明板もありました~

岐阜県指定文化財 中観音堂の円空仏 十七体
「円空は寛永9年(1632)羽島市上中町中に生まれ、幼き頃から出家して某寺にいたが、23才の頃出奔して流浪の旅に出たという。やがて伊吹山修験の大平寺に身をよせ、白山禅定、富士山禅定などをこころみ、12万体の仏像の彫成を発願するに至ったという。
寛文6年(1666)北海道に渡り、ついで東北をめぐっていくつかの円空仏を残し、同9年の頃、郷里の中観音堂の本尊11面観音立像(222.0センチ)をつくったと推測される。この11面の像の背面には「鉈が入っている」というくりぬきの跡があるが、誰も見た者はいない。
堂内に祀る円空仏の殆んどは、この11面の像と共につくられている。いずれも上質のヒノキ材で、鬼子母神と聖徳太子や、神像と弁財天などは、対のような感じで彫られている。これらの像はいずれも表面がなめらかに彫られていて、ひたすら古典を迫ったとされる円空初期の特徴を示している。
これらの像に対して、二体の護法神と一体の金剛童子だけは全く作りがちがう。円空は寛文11年法隆寺に修学し、延宝3年(1675)奈良県大峰山の修験道場をめぐっており、その頃から独特の荒けずりの彫法を生み出したと見られているが、こうした時期に位置づく作品であろう。」
羽島市教育委員会
これが観音堂になります!
拝観料300円を払って中を拝観させていただきます(^^)/

中観音堂の概要としては
「寛文11年(1671年)に、円空によって亡母の菩提を弔うため、自ら彫刻した十一面観音菩薩像を本尊として、自らが住持をしていた関市の天台宗寺門派弥勒寺の末寺として蓬莱山有宝寺(宇宝寺)の寺名で建立された。
十一面観音菩薩像以外にも多数の円空仏を所蔵していたが、江戸時代にたびたび水害に見舞われ、多くが失われたとされる。
現在残っている鬼子母神像や大黒天像など17体の円空仏は、岐阜県の重要文化財に指定されている。
明治9年(1876年)に廃寺となり、それ以降は住職が不在となっている。
昭和63年(1988年)1月、隣接地に羽島円空資料館が開館、円空仏およびそのレプリカと円空の生涯について展示が行われている。
平成20年(2008年)には円空の木像が建てられた。」
だそうです(^^;)
堂内には格子の中に円空仏が飾られており、中心に本尊である十一面観音像が祀られておりました
中では音声ガイダンスに従って円空仏の説明を受けながら拝観することができました♪

円空資料館も見学させていただき、
こちらはレプリカですが、年表を使った歴史紹介など資料の展示をしておりました~(≧∇≦)ノ
最後に「寛永通宝」の付いたストラップが入った御朱印を購入してきました~

場所:中観音堂

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BEFORE「円空誕生の地 長間薬師寺」
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